Essay 2 of 門脇 仁 オフィシャルサイト





 想像力 すなわち生







 「アフリカの飢えた子どもを前にして、
 『嘔吐』は無力だ」

(ジャン=ポール・サルトル)



 いまではよく知られるこの言葉に若い頃出会い、立ち止まって苦しんだ芸術家がいた。半世紀以上も昔の話だ。

 もはやこの言葉に、多くの若者を惹きつけたり、社会参加へ駆り立てたりする力はないかも知れない。だが当時、真の意味の自由を求める若者にとって、この言葉は避けて通れない絶対の糾問だったに違いない。

 その若き芸術家がたどり着いた答えは、次のようなものだった。

 「飢死していく子どもがいる世界で絵を描いていることは、エゴイスティックな行為だろうか。いや、人間の想像力に限界があることが、そもそもエゴイスティックなのである」。

 私がその人の存在を知ったのは、おそらくこの言葉が本の余白にでも書きとめられ、何十年もたったあとだったろう。だが、それからさらに数十年を経たいまも、この言葉は独特の重みをもって響いてくる。

 飢えて死んでいく子どもは、われわれが目をそらしたつもりはないのに見えていない現実。それは時によって「失われゆく森林」であったり、「風化する公害史」であったり、「絶滅のおそれのある生物種」であったりする。だが根本に「人間の想像力の限界」があるという事実は、時代が進めば進むほどあらわになってくる。

 他人の痛みがわからない現代病。環境問題を笑い飛ばす批評家。そしてあらゆるリスクへの備えができていない私自身。すべては「想像力の限界」に行き着く。おそらくケビン・カーターの「ハゲワシと少女」や、水危機を訴えるユニセフのポスターなどからわれわれが受け止めるのも、これと共通したある種の「悶え」だろう。

 いつのまにかその悶えに麻痺しかけている凡庸なこの私でさえ、いまではあの芸術家と同じ到達点をめざすよりほかにない。つまり、想像力のフレームをすこしでも遠くへ押し拡げること。将来世代のために現在世代が果たし得る、それはささやかな役割のひとつでもある。

 いまも私にそう教えるのは、くだんの芸術家が残した宇宙的スケールの彫刻だ。それはまさに、人間の想像力のフロンティアを超えたところの「見えない力」を可視化するいとなみだった。限界と向き合う想像力の共振によって、未知のエネルギーを感知し、受容し、人間精神に送り込むトランスミッター。それがその人のライフワークだった。

 私は勝手にそう信じている。

 じつは学生時代、一度だけその芸術家とお目にかかる機会があった。何しろこちらは若造だったし、近くに同席しているだけでも気後れし、まるで会話にならなかった。だが、その静かで透徹した眼差しだけは忘れない。自分の言葉がどこに向かっているのか、誰に届いているのかをひとつひとつ、一人ひとりに確かめるような話し方をされる方だった。

 その人の名は飯田善國。海外でも知られる彫刻を無数に残し、詩人としても魅力ある言語空間を生みだして、2006年の春にこの世を去っている。

(2011.3.25)

















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