Review1 of 門脇 仁 オフィシャルサイト


 TEEB最終報告書
 (生態系と生物多様性の経済学)

  「メインストリーミング」という新たな環境アプローチ



 マルハナバチの巣が人間にもたらす恩恵は、蜂蜜やプロポリスやロイヤルゼリーの売り上げだけではない。そもそも多くの農作物が授粉によってつくられている。生物多様性が失われやすいのは、このようにちょっとイメージすれば納得できるつながりが忘れられているためだ。

 それをわかりやすく金額に置き換え、「マルハナバチと経済の関係をうっかり忘れた場合の損失」を食い止めようと考えてみる。さらにその発想を、生態系とそこに暮らすあらゆる生物種にあてはめてみる。生物多様性保全のきっかけは、そんなところにもある。

 賢しらに表現してしまえば、TEEBとはそんなレポートだ。

 正式名を"The Economics of Ecosystems and Biodiversity "(「生態系と生物多様性の経済学」)という。2010年12月、愛知県名古屋市で開催された国連生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)で発表された。地球温暖化の経済影響を明らかにした「スターンレビュー」の生物多様性版ともいわれる。

 だが私の関心は、環境への新たな見方を促すひとつのキーワードにあった。「メインストリーミング」である。
 TEEBは調査論文の形式ではなく、共同執筆者による一見ラフな論考のスタイルを採っている。その主張を一言で表しているのが、サブタイトルとして使われた次の表現だ。

 「自然の経済学を主流化すること
   (Mainstreaming the economics of nature)

 つまり、いままでかえりみられなかった生物多様性保全のコストとベネフィットを経済的価値に換算し、社会経済のメインストリーム(主流)の動きに組み入れようとする試みである。

 似たような考え方はいままでにもあった。たとえば環境経済学でいう「外部経済の内部化」。これはコモンズ(社会共有資本)として経済の枠組みの外側で考えられてきた価値を内部に組み込むというものである。そのため、エコタックスの導入といった制度面の見直しを促す。これに対し、「生態系の主流化」というコンセプトは、「生態系破壊はGDPの5~10パーセントの経済損失」といったわかりやすいインデックス(指標)によってつながりを見える化し、生態系保全に対する国家・企業・地域社会などの対応に根本的な見直しを働きかける。

 そもそも「メインストリーミング」は、福祉の分野で使われてきた言葉だ。障害者と健常者を区別せず、両者を同じ生活環境に置く。これは見方を変えれば、障害者を社会の主流に位置づけることでもある。
 それを本来の(または狭義の)メインストリーミングとするなら、このような考え方をあらゆる分野に汎用するのが最近の(または広義の)メインストリーミングだろう。

 そしてTEEBでは、この言葉を「経済社会における生態系の主流化」という意味で用いているわけだ。そのために使われたのが、生態系や生物多様性のコストや便益性を数字ではじき出す手法。「スターンレビュー」の姉妹版といわれるのもそのためである。
 そもそも「メインストリーミング」には「商業価値が高い」という含意もあるので、このネーミングは生態系の経済価値を扱ったレポートの趣旨にまったく一致している。

 このTEEBで金額に換算された多くの生態系価値の中で、メディアや企業などに最も注目されたのは、次の試算データだろう。
 「生態系破壊と生物多様性減少による世界の経済損失は年間約5兆ドル(420兆円)」。
 これも「スターンレビュー」と同じく、政策立案者、経営者、土地所有者、企業市民など、あらゆるステークホルダーへの訴求効果がある。きわめてオーソドックスな戦略だが、これもまた普及啓発の「主流」を担っている。

 今後、「メインストリーミング」が環境用語としても認知されるかどうかはわからない。ただしひとつ言えるのは、生態系を主流に据えたことで新しい可能性を生みだしている分野が、経済のほかにもかぎりなく存在することだ。科学技術、教育、政治、外交、文化……さまざまな領域で、生態系に対する人間の責任や、資源・環境面の制約から来る価値体系の見直しが問われている。そしてそれは一方で、経済成長から成熟社会へのドライビングフォースとなる新たな価値の創出にもつながっているのである。

 かつて「世界のフラット化」という言葉が流行した。グローバル社会の構造変化を「水平化」という一言で言いきった秀逸なフレーズである。同様に「メインストリーミング」も、福祉や環境を社会の中心に据える新しいキーワードとして、今後存在感を強めることになるだろう。1980年代あたりからの国際社会の流れの中でこの言葉を読み解くと、まさにそう思える。

 というわけで、ここではTEEBのくわしい内容に触れるよりも、「メインストリーミング」という新しい環境アプローチの可能性を強調しておきたい。読者のみなさんはどう思われるだろうか。
 生態系があらゆる価値と倫理的判断の中心に据えられる時代。かつては一部の人々の仮想や夢想でしかなかったそんな時代が、すこしずつ現実になりつつある。

(2011.2.20)







teeb_report[1].jpg