Essay 4 of 門脇 仁 オフィシャルサイト



  シラク氏への手紙



 拝啓 ジャック・シラク様。
 フランス大統領を退任されたいま、「持続可能な開発と文化・文明間対話」のための財団を設立され、理事長をなさっていると伺いました。
 そんなあなたに、初めてお便りしています。
 私にとってあなたは忘れ得ぬ人ですが、あなたのご記憶に私はいないでしょう。
 私は一度だけ、あなたと握手をしたことのある日本人です。

 1995年10月、パリは初秋の肌寒さにつつまれていました。
 風のうわさが広まりました。「日本のスモウがパリに来る」。親日家で相撲観戦の好きなあなたが、86年に当時のパリ市長として招いたイベントです。それに次ぐ2度目の「大相撲パリ場所」が開かれるというのです。
 パリ大学の留学生だった私は、さっそくフランス人の友人から桟敷近くの座席券を手に入れました。かつて東京の両国国技館を間近く見降ろす建物で仕事をしていたときも、ついぞ立ち寄れなかった大相撲。思いがけないめぐりあわせに私は喜び、ベルシーの競技場へと馳せ参じました。その日、現職大統領だったあなたが、貴賓席にいたことなどまるで知らずに。

 異国で見る相撲は、エキゾチックな小宇宙でした。
 四方の天井からは赤・緑・黒・白の房が吊り下げられ、花道は手を伸ばせる距離なのにどこか近寄りがたい。絵柄や素材にさまざまな趣向を凝らした化粧回しが、その道をのしていきます。土俵には力水が光の粒となって散りしぶき、清めの塩が勢いよく播かれました。多神教に心のルーツをもつ日本人の私にとって、土俵には相撲の「神」が宿るといわれれば、すんなり信じてしまいそうです。
 一番ごとに呼び出しの手で美しく掃き清められる土俵を、私がフランスのメディアなら、“la culture raffinee”(洗練文化)と評したでしょう。このときは私も、いささか日本の文化に誇りをおぼえたものです。すべての取り組みが終了し、観客がわさわさと出口へ引きあげる段になっても、私はまだ若貴や曙を見た余韻にひたり、カクテルライトが照りつける土俵の砂をぼんやりと眺めていました。
 そのとき、かつての名横綱北の湖をはじめとする親方衆が土俵下に揃いました。何だろうと見ていると、相撲協会の代表たちが、退出する一人の人物にかわるがわる挨拶をはじめたのです。それがジャック・シラクさん、あなたでした。

 私は思わず、協会の一団に近づきました。そのまま平静をよそおい、輪のなかに溶け込みます。そして5人ほど残った列の最後尾に加わり、ぬけぬけとあなたの前に立ったのです。
 このときあなたのSPに、一言も咎められなかったのは幸いでした。レ=アルのカジュアルショップで買った50フランのシャツ。石畳を歩きすぎてすり減った黒のショートブーツ。そんな気楽ないでたちから、野次馬であることはたやすく露見したでしょうから。
 心の準備のなかった私は、とりあえずあなたに右手を差し出しました。その手をおもむろに握り、あなたの方から「ボンジュール」とひと声かけてくださったのを憶えています。
 動的なイメージの強いサルコジ現大統領に比べて、あなたは見たところ静謐の人でした。東洋美術に造詣が深いというのも十分にうなずけました。じつは徹底してエネルギッシュな行動家であり、考えるまえに走り出すイタリア人的気質もお持ちだというようなことは、あとで知った評判です。
 私はひととき、観光気分でした。「シラクがつくったパリ場所」に心から満足されていたご様子のあの笑みは、私のパリ生活に忘れがたい光を投げかけてくれました。それはまるでボーヴォワールが『他人の血』に描いたような、一点の翳りもなく実存する「完璧な瞬間」たり得たのかも知れません。
 しばらくまえから起こっていた、あの「事件」さえなければ。

 1995年6月。大統領就任直後のあなたは、南太平洋ムルロワ環礁で核実験を強行しました。それは包括的核実験禁止条約(CTBT)の締結をまえにした駆け込み実験といわれ、世界に大きな波紋を投げたのです。
 とりわけ唯一の被爆国である日本からのバッシングは、熾烈をきわめました。「傲慢な大国主義」などというのはまだ可愛いほうで、フランス人の人間性にまで懐疑の目を向けるような、かたよった主張もありました。文学者たちによる深遠で真摯な訴えも数多くフランスに届く一方、日本国内ではフランス産ワインやブランドバッグの不買運動などという的はずれなボイコットも……。そんなことをすれば、日本人は一国の文化を、グルメやブランドでしかとらえられない田舎者として嘲笑されるだけだと、私はとある連載記事で批判したほどでした。
 ただし非難の声は、フランス国内や海外県(DOM-TOM)にも挙がっていました。核実験非難のプラカードを首から下げたデモ行進。そのプラカードには、南太平洋タヒチの裸婦を描いたゴーギャン作品「我ら何処より来るや、我ら何者なるや、我ら何処へ去らんとするや」のタイトルが引用されています。核実験の張本人として大統領を指弾するビラも、学生たちの手でメトロの窓ガラスに貼られました。その半年前、シラク政権を支持する学生たちがジェネラル・レクレル通りをオープンカーで凱旋していたのが、まるでウソのようでした。
 ド=ゴール、ポンピドゥーの路線を引き継ぎ、「強いフランス」を標榜したシラク政権。核実験の強行は、ミッテラン政権の頃から決定していた国策だといいます。ただし、それを正当化するためにあなたが用いた「抑止力」という言葉の真意は、しばしば私を戸惑わせました。
 私だけではありません。私と同じく青春の一時期をフランスで過ごした多くの外国人を動揺させたのです。

 異国から見たフランスは、原子力の申し子でした。エネルギーの約8割を原子力でまかなう一方、核兵器については早くから保有体制を固めていました。原子力はフランスの産業と政治の立役者といってもいいでしょう。
 そしてフランスと日本は、どこか皮肉な「核つながり」ともいうべき縁でむすばれていましたね。核によって国力を伸ばしたフランスにひきかえ、日本は広島・長崎に投下された原爆で永久に癒えない惨禍を被ったうえ、福島原発は東日本大震災にともなう大事故で、チェルノブイリ級の危機に直面しています。
 私はあの核実験の前年、パリのユネスコ本部で開かれた環境ジャーナリスト世界連盟の初総会に、日本からのオブザーバーとして出席していました。そこではチェルノブイリ原発事故をめぐる報道が議論の大きな焦点となっていました。管理体制にいくつも問題があったとはいえ、不慮の事故であることにかわりのないチェルノブイリが、あれほどの議論になったのです。ましてユネスコのお膝元のフランスが大量殺戮兵器の実験をしたとなれば、どれほど大きな問題になるかは明らかでした。
 ちなみにこの世界会議は、フランスとドイツのジャーナリスト連盟の協力によって実現しました。ヨーロッパ統合のシンボルとして独仏共同パビリオンが実現した愛知万博より、11年もまえの出来事です。東西緊張も去り、国際政治の軸が地球環境保全へ向かおうというときでした。言葉をなりわいとするジャーナリズムにとって、それだけに「抑止力」という言葉がいかに恰好の題材となったことか。
 性悪説にもとづく、ひとりよがりな政治的詭弁。結局はそれが「抑止力」の意味です。
 古来、モンテーニュやヴォルテールが人倫や社会のあり方を説き、それを誇り高い文化の礎としてきたのがフランスでした。その誇りのゆえに、傲岸という隘路にはまってしまったのかと貴国を疑ったとき、そこに学ぶ20万人の留学生が立たされた精神的な窮地を、あなたはご存知だったでしょうか。

 じつはあなたとお会いした前年、私はやはり偶然のきっかけで、べつの大物政治家を目にしています。極右政党フロン・ナショナル(国民戦線)のル・ペン氏です。
 よく晴れた5月1日。スーツの左胸にメー・デーの鈴蘭を刺し、正装の一団がリヴォリ通りに現れました。街頭演説をするところだったのでしょう。一団のまえを気づかず通り抜けようとした私は、ものものしい気配にたじろぎ、足を止めました。見ると2メートルほど先に、TVや新聞で見たことのある、眉間にすこし縦皺を寄せたジャン=マリー・ル・ペン氏がいたのです。
 私は人波を足早に抜けてセーヌ沿いの舗道へ渡り、引き返してポン・ヌーフ駅へ向かいました。その日もル=ペン氏は、「マグレブ(北アフリカ)移民の国外追放を!」などと演説で叫んだのでしょうか。午後にはアルジェリア系移民の青年が、フロン・ナショナルのデモ参加者たちに抱え上げられ、セーヌへ投げ落とされて死んだそうです。私はそれを後日ニュースで知り、至近距離に自分も居合わせたことに戦慄しました。
 極右も極左も、フランスの良識を代表していないとあなたはおっしゃるでしょう。私もそう思います。しかし本国に実害のおよばない太平洋の生態系を破壊する実験は、あたら若者の命を水に沈める蛮行とどこが違うでしょうか。
 滅びゆく命が見えないなら、殺戮の名には値しない。他国の武器を封印するためになら、それをうわまわる武力の保持も辞さない。そんなロジックは何の抑止力にもならないでしょう。
 むしろそれは、核なき世界への進展を阻むだけです。そしてもっとも救い難く「抑止」されてしまったのは、広島・長崎の原爆犠牲者に対する、核保有諸国の想像力と畏敬の念ではなかったでしょうか。

 ギュメ美術館のうす暗いハロゲンランプの下で東洋の香炉に見とれ、ひっそりとたたずむENA(フランス国立行政学院)の学生。私はいま、そんな若き日のあなたに思いを馳せています。
 政治家であるまえに、一人の人間として東洋の文化に憧れ、あなたは小さな香炉にも無上の崇敬をそそいでいたといいます。すべてを推し包むような寛容なまなざしは、大統領に就任してからも変わらなかったでしょう。就任直後の演説でも、あなたは物静かな横顔の下に喜びを押し隠し、全フランス国民に慎み深くこう語りかけました。
 「私に信頼を託してくださったすべての方々、またそうでないすべての方々にも、心より感謝を申し上げます」 
 あなたの口調は、すこし気取った緩やかな第一声に始まり、一瞬おいてたたみかけるように加速したあと、最後の音節へストンと落とす、独特のものでした。当時の私はよくあなたの口調を真似て、友人たちを笑わせたものです。
 私たちはどこかでつながっている。私はそう思っていましたし、いまでもそう信じています。

 150年来、日本人が憧憬をいだき、摂取してきたのはフランス文化でした。ときにそれは人種的な劣等感にもつながり、愛憎半ばすることさえありました。その裏返しか、高度経済成長期をへてアメリカに居並ぶや、日本人はヨーロッパの文化や歴史に昔ほど目を向けなくなりました。
 しかし私は、いまでもフランスへの片恋を続けています。日頃は個人主義だけれど、本当に困ったときには必ず手をさしのべてくれる情け深いフランス人。春にはセイヨウキンポウゲが咲き、黄色の絨毯が休耕地をおおいつくす美しい田園。一冊の文庫本がきっかけで、十代の私を壮絶な言語表現のめまいへと引きずり込んでいったフランス文学……どれも私の生きたあかしであり、いつか墓場に持っていきたい思い出の数々です。

 だからシラクさん、聞かせてください。
 あなたは生命への尊重を、ポリティカル・ウィル(政治的意志)とはべつものだと考えていたのですか?
 私とあなたを「つながっている」と感じさせるこの地球を、あなたは国境によって寸断されたモザイク画と見ていたのですか? 
 そしてもうひとつ。「抑止力」とは、「核を使わない」と言い切れる理性と良心をもちあわせた国が、そうでないほかの国を牽制するための特権と考えていたのですか?
 とうに政界から身を退いた、いまだからこそお答えください。
 私たちはそのようなロジックに加担するために、フランスを愛したのではないのです。

 いつの日か生態系倫理が人の心に行きわたり、成熟社会の時代が来たら、私たちの共生的なつながりが誰の目にもはっきりするでしょう。そのときあなたは力強く「ノン」と言ってくださるはずです。いまも私のなかでくすぶり続ける、この三つの問いのすべてに――。 私たちは、そのときこそ対等な、「完璧な瞬間」を迎えることができるでしょう。
 素朴なメッセージですが、これまで日本を愛してくださって、本当にありがとう。苛酷な任務にあたられた12年間、お疲れさまでした。
 彼我の意識差を超えて、私もフランス文化を愛し続けるつもりです。

 今夜は東洋人らしく、私も香を聴いてみようと思います。両手に収まる小さな灰鉢に埋もれていた炭に、いま燠火(おきび)を入れたところです。
 香木の名は白檀。おそらくご存知でしょう。インドあたりが原産の常緑樹です。

敬具

(2011.4.27)







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この手紙は、2012年公開予定の当サイト仏語版”Les Couleurs
Planetaires”に仏訳で掲載予定。




















































































































































Qui sommes nous....jpg
「我ら何処より来たり、我ら何者なるや、
我ら何処へ去らんとするや」
(ゴーギャン)












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核実験中にメトロに撒かれたビラ
「何がシラクを走らせた?」