Essay 8 of 門脇 仁 オフィシャルサイト




マテリアル・ワルツ

万象は天下の廻りモノ





 デリックに初めて会ったのは、礼文島を旅した帰り道だった。
 6月のある宵のこと。私は香深(かふか)という港からフェリーに乗り、日本最北端の駅、稚内へ戻ってきていた。
 札幌行きの夜行列車を待ちながら、礼文島で目にしてきた風景を次々と思い浮かべる。急斜面のふもとの海岸づたいに建っていた家々では、どんな暮らしをしているのだろう。
 それは寂しげな待合所での、自分だけの宴のようなひとときだった。
 だがさっきから、現実の空間のほうでモゾモゾ動いている人影がある。そいつが礼文島の残像にかぶさり、島影の輪郭をごちゃごちゃにしてしまう。
 (何だあいつは……)
 ついにその人影は、礼文島を過去へと押しやってしまった。見たこともない大きなペットボトルをたずさえた外国人。探検家リヴィングストンのような半ズボン姿で地べたに座ったり、立ち上がってうろうろ歩き回ったりしながら、私と同じように夜行列車を待っている。上背も恰幅もあるが、年恰好は私と同じだ。
 それがデリックだった。
 初夏とはいえ、北国の夜は肌寒い。しかも半ズボンで歩くとは、ほとんど少年もどきの中年だった。だが赤ら顔の目もとだけはダンディで、俳優のリチャード・ギアに似ていないこともない。
 彼のペットボトルが私は気になった。中身はミネラルウォーターだろう。もともと外国人旅行者は、飲み水に神経をとがらせるイメージがある。まして肌身離さずミネラルウォーターを持ち歩くような奴は、その土地の衛生環境にダメ出しをしているようなものだ。水のきれいな日本で、それは要らぬ心配だと言ってやりたくなった。
 “Are you from US?”
 “No, Australia.”
 いきなり出身地を尋ねると、彼はにこやかに答えた。ここから会話が始まった。
 オーストラリアなら、仕事で行ったことがあるよ。へえ、どこへ? ニューキャッスル。何で? だから、仕事さ、昔、国際会議でね。ふーん、何の? サステイナビリティだよ、俺は環境ライターだからね。で、住んでるのは東京? そうだよ、君は? 俺はクイーンズランド州に住んでる。
 彼は終始にこやかだった。私は「サスティナビリティ」(持続可能性)というとき、彼のお国訛りで「サスタインアイビリティ」と発音し直してみた。私の行ったニューキャッスルでもそう発音していたからだ。彼は「ほう、わかってるねえ」というようにまた笑った。
 私はペットボトルへの文句も忘れ、この男と打ち解けていた。

 夜行列車に乗ったあとも、私たちは近くの席に陣取って話し続けた。車両にはほかに誰もいない。するとデリックがおもむろにペットボトルのキャップを開けた。
 それがミネラルウォーターでないとわかったのは、彼がラベルをこちらに向けたときだ。
 「大五郎」と書いてある。4リットル入りの徳用焼酎瓶! 旨くはないがアルコール度数が25度と高めで、値段はめっぽう安い。酒を通り越し、私には薬のような匂いがした。
 旅先でこれを持ち歩くというのは、相当の大酒呑みだろう。だが彼の屈託のなさに引き込まれ、私も大五郎の晩酌につき合うことにした。
 窓の外は満点の星空。夜行列車は銀河鉄道のようにゆるやかなカーブを描き、漆黒の原野を駆け抜けた。
 私は自分の旅の目的を話した。北大でバイオトイレの研究をしている先生に話を聞き、その後、北大付属植物園やアイヌ博物館を見た。さらに礼文島まで足を延ばし、天然記念物のレブンアツモリソウの群生地を訪れた。利尻島にも寄り、名産の昆布をみやげに買い込んだことなど。
 するとデリックが、自分の境遇について語りだす。クイーンズランドの自宅には、自分で造ったバイオトイレがある。仕事がカーペンターだから、簡単に造れる。でもオーストラリアの労働賃金や年金制度に対する抗議の意味で、いまは大工の仕事をしていない。だから暇に飽かせて、日本にスキーをやりにくる。今度も大雪山を滑りにきた。大きなリュックに簡易テントを入れて持ち歩いている。雪のない地方へ行くと、冬でもテントで野宿する。
 要するに、彼はダンディでワイルドな中年だった。アウトサイダーとアウトドア派を同時にこなすのはさぞや楽しかろう。自由さゆえの不充足は感じないのだろうか。だがオーストラリアの太陽のようなデリックの笑顔は、そんな疑問をかき消した。
 私たちはバイオトイレという共通の話題を持っている自分たちを「奇特だ」と讃え合った。バイオトイレには、微生物による分解の助けになるよう、おが屑が使われる。だが実際はおが屑でなくてもいい。私が北大の先生から仕入れたその知識をデリックはすでに実践していて、「俺は古雑誌を使っている」といった。意固地になってエコを叫ぶのではなく、日々の暮らしでサステナビリティを(いや「サスタインアイビリティ」を)追求している。デリックの生き方を私は好ましく感じた。
 翌朝、列車は札幌駅に着いた。デリックはべつのスキー場に行く予定だった。私は東京行きの飛行機に乗るところだった。
 別れ際、彼は南オーストラリアで採掘されたオパール原石のかけらをくれた。私は彼に東京の連絡先を告げた。

 2週間ほどして電話があった。
 「もしもし、門脇さんですか? デリックさんという外人さん知ってます?」
 「ああ、友達です。オーストラリア人の」
 「その人がいま店先にいるんですよ」
 「ほー、そうですか。で、お宅どちら?」
 「浅草商店街のパンツ屋です」
 突然のことだったが、「パンツ屋」という響きにデリックらしいものを感じた。パンツといっても、ジーンズやスラックスの言い換えではない。文字通り下着のパンツである。お祭り用のさらしやお年寄りのショーツなども扱う、浅草らしい老舗のようだった。東京に着いて浅草観光するうちに、デリックが仲よくなった店のひとつなのだろう。急いで店へ行って見ると、気さくなお姉さんが応対し、「保護」していた風変りな男の身柄を無事に引き渡してくれた。
 こうしてわれわれはふたたび合流した。
 翌日、私は勝どきマリーナでクルーザーを借り、デリックを乗せて東京湾を周航した。こう見えても私は一級船舶操縦士。とくにこの時期はよく船に乗っていた。海でもよく遊ぶというデリックは、ますます少年のように目を輝かせてはしゃいだ。堤防で釣りをする人や、すれ違う水上バスの客たちに手を振って呼びかけている。彼らもたいがい笑顔を向け返してきた。

 デリックはかなりの節約家だった。ともに行動してみるとよくわかった。宿泊はいつもカプセルホテルだし、食事はコンビニの店先でヤンキー座りをしながら済ますことも多かった。
 「一人ならサンドイッチかコンビニ弁当でいい。ひとに誘われればちゃんとした店で食事もする。そういう流儀なんだ」
 すべては誘った側の負担にまかせる。そういえば彼の方から誘ったのは、「大五郎」での酒盛りだけだった。あのときの焼酎は確かに彼の「奢り」だった。いちおうスジは通っている。
 仕事をせずにアウトドア三昧の暮らし。本人はそれで幸せなのだ。「脱成長」などという前向きな言葉でその生き方を取り繕う必要はない。当時は世界経済も、「成長」という言葉に見切りをつけるほどのガタ落ちぶりではなかった。何しろリーマンショック以前の出来事である。

 私たちは一緒にカラオケにもいった。彼は聴く方が好きだといい、なかなか自分では歌わなかった。私の歌にお愛想で耳を傾けたり、手拍子したりしている。だがしばらくするとマイクを握り、アカペラで歌い始めた。

 Waltzing Matilda, Waltzing Matilda
 You'll come a-waltzing Matilda with me
 And he sang as he watched and waited
   til his billy boiled
 You'll come a-waltzing Matilda with me

 踊るマチルダ、ワルツを踊るマチルダ
 おまえはいつも俺についてくる 
  ワルツィング・  マチルダ
 流れ者は歌った ブリキ缶のお茶が沸く
  のを待ちながら
 いつも一緒だ ワルツィング・マチルダ

 それはオーストラリアの国民的な愛唱歌「ワルツィング・マチルダ」だった。
 この歌にいう「ワルツを踊る」とは、見知らぬ土地で流浪の旅をすること。マチルダとは女性の名で、流れ者たちが背負って歩いたという毛布の愛称だ。
 かつてイギリス人犯罪者の流刑地だったオーストラリア。毛布ひとつで放浪の旅をする流れ者は「スワッグマン」と呼ばれた。「ワルツィング・マチルダ」は、そんなスワッグマンたちの放浪の道連れのような歌である。
 マチルダとはもともと、美しいスコットランドの娘だった。オーストラリアの牧場主に嫁いでくるが、夫は急死してしまい、マチルダは女手ひとつで牧場を継ぐことになる。年を経て、彼女はスワッグマンたちから母親のように慕われる身となった。
 そんな流れ者のなかにひとりの大男がいた。彼は祖国スコットランドで母親を亡くし、その悲しみから逃れるようにオーストラリアへ渡って来た。だがある朝、男はくるんだ毛布を背負って牧場からいなくなってしまう。その直後、マチルダは彼がどこかの牧場で羊を盗み、警察に追われる身となったことを知る。逃げ切れなくなった大男は、ついに沼へ身を投げて死んでしまったという。「おまえらに捕まりはしない」といい遺して。
 いまでもその沼のそばを通れば、ユーカリの葉ずれの囁きが大男の歌のように聞こえてくる。

 ワルツィング・マチルダ ワルツィング・マチルダ
 マチルダを背負って旅をしよう
 誰か俺と一緒に
 毛布ひとつでさまよい歩く奴はいないか?

 それが「ワルツィング・マチルダ」の大意だ。
 メロディは明るく、リズムも弾んでいる。しかもデリックが歌うと、その声は低音ながら、遠足児童の歌声のようにはじけていた。
 私はそれまでこの歌を知らなかった。歌詞にもあまり気を留めず、何となく楽しい歌だと感じるだけだった。だがあとから思えば、その弾むような曲調と哀しい歌詞のギャップに、南半球国家の光と影が見える。移民国家オーストラリアの歴史も見える。この歌が世界的に親しまれている理由もそこにあるだろう。デリックの先祖にも、流浪するスワッグマンがいたのかも知れない。デリック自身、あらゆるモノの価値の行き詰まった時代をさまようスワッグマンではないだろうか。彼のリュックのなかの簡易テントこそ、現代版「ワルツィング・マチルダ」なのだ。

 デリックはその後、関西を旅行してオーストラリアへ帰っていった。
 帰国後、彼はメールをよこした。そこには私への感謝や今回の日本の旅の感想とともに、次のようなメッセージがつづられていた。

 「京都では、賀茂川の土手で野宿をした。まわりにホームレスたちがいっぱいいたなあ。俺はいつもの調子で、すぐに彼らとも仲よくなった。コンビニ弁当を分け合って食べたし、大五郎もいっしょに飲んだ。京都を立つ朝、簡易テントはもういらなくなったから、彼らにあげたよ。リユースだ。日本人も昔からやっていただろ? 東京で君から受けた親切への、それが恩返しだと思ってる。いつかまた会おう。デリックより」

 彼のメールを読みながら、モノも人も天下の廻り物だと私は思った。与えられたライフサイクルをまっとうするため、万象は流転し、「ワルツ」を踊っている。これからはリユースのことを「マテリアル・ワルツ」と呼んでみたい気がした。循環型社会を心の面から支えるのは、こういう楽しい発想かも知れない。

 デリックはいまでも、いろいろな旅行先からメールを送ってくる。東京でもときどき私と会っている。先日、寿司屋でいっしょにクジラ握りを食べたときは、「さあ、シーシェパードに挑戦だ」などとジョークを飛ばしていた。
 スーパーや酒屋で大瓶のペットボトルを見ると、私はいつも稚内での彼との出逢いを思い出す。屈託のないリズムに乗せて淡々と流れる「ワルツィング・マチルダ」のメロディとともに。

(2013.1.18)
























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礼文島

































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赤ら顔のデリック








































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レブンアツモリソウ







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バイオトイレのしくみ























































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東京湾で








































「ワルツィング・マチルダ」
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デリックの簡易テント


















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ニューカレドニア島のデリック






 歌手のトム・ウェイツが歌う“トム・トラバーツ・ブルース”の終奏には、“ワルツィング・マチルダ”のメロディが挿入されている。漂泊の哀感を帯びた美しいバラードだと思うが、いかがだろうか。

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